寄稿文「斎藤米子様の寄稿文を拝見して」
金沢市辰巳町 水野信太郎氏 

 前回の『赤煉瓦倶楽部・舞鶴 会報31号』平成10年8月31日付を拝見して筆をとることにしました。それは京都市山科区の斎藤米子様による寄稿文に触発されてのものです。斎藤様の文章によりますと、岸和田にあります御主人の実家から山岡尹方の遺品である硯と筆を発見なさったとのこと。それのみならず明治30年6月から同35年までの日記をも保存されているというのです。
 実は私が山岡なる人物の名を初めて目にしたのは、昭和59年の春でした。今から14年半も昔のことです。場所は大阪府岸和田市並松(なんまつちょう)で、まだ現業だった滑ン煉の資料室でした。
 山岡の名を「ただかた」と読む点につきましても、斎藤様の寄稿文で初めて確認することができました。『岸和田煉瓦株式会社経歴』には人名の読み仮名が一切ないため、“ただかた”とか“これかた”と呼ばれていたのではないか。
 キシレンに関します調査研究の一部を昭和60年10月に、私共が日本建築学会の全国大会で発表しております。当倶楽部会報の編集委員に無理を申し上げて、ここに発表内容を再録していただくよう御願い申し上げました。研究成果を読んでいただきますと、当時の山岡自身の努力と岸和田煉瓦という会社の大きさ、そして斎藤様宅に残されている山岡の日記がもつ重要性が理解されるものと思われます。


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