はじめにー近代化遺産とは

 本書は『舞鶴の近代化遺産』というタイトルである。ここに「近代化遺産」という、あまり耳慣れない言葉が使われている。近代化遺産とはどのようなものをいうのだろうか。近年の急速な技術革新や産業構造の変革、経済効率や利便性の追求などによる社会構造や生活様式の変化により、日本の近代化を支えてきた文化遺産の取り壊しや建て替えが進行しつつある。近代化の歩みを目に見える形で伝えてくれる証が次々と失われていくなかで、保存・活用措置が十全にとられているとはいえない状況にある。近代化遺産は、このような危機的状況を背景に生まれた新しいタイプの「文化財」である。
 文化財行政関係の条文等にその概念が規定されているわけではないが、近代化遺産とはおよそ次のようなものと整理することができる。 すなわち、江戸時代末から第二次世界大戦が終わるまでに、欧米の先進的技術や構(工)法、材料を用いてつくられた産業、交通、土木に関わる建造物(各種の構築物、工作物を含む)や土木構造物のほか、金融、教育、文化等にかかわるもので、具体的には次のようなものである。民家や商家も対象となる。
 ・産業関係:造船、鉱業、製鉄、製糸、醸造、煉瓦製造等産業施設
 ・交通関係:鉄道施設(駅舎、機関庫、鉄橋、等)、トンネル(隧道)、道路橋、燈台、船舶等
 ・土木関係:港湾施設(埠頭、護岸等)、灌漑・水利施設、運河、発電施設、上下水道施設等
 また、これらの施設と一体となった設備・機械類、家具・備品類、機関車、車両なども含まれるので、対象としては実に多種多様である。これまでの有形文化財は建造物の単体を対象としていたのに対して、近代化遺産は建造物を中心として、稼働していたシステムを包括的にとらえている点に特色がある。造船所であれば、工場、事務所、ドック(船渠)、クレーン(起重機)などが、あるいは発電施設を例にとれば、本館建屋や水路橋、水源地のダム(堰堤)などが対象となる。碁盤目状の街路の多くに戦艦や巡洋艦に因む名前(敷島通、朝日通など)が付けられているのが舞鶴の東地区の町割りの特徴であるが、これなども近代化遺産ととらえることができるのではないか。
群馬県松井田町の碓氷峠第三橋梁。平成5年、近代化遺産として全国で初めて国の重要文化財に指定。
 国登録有形文化財
 神崎ホフマン式輪窯
 住環境の急激な変化がもたらす環境破壊が深刻化するなかで、文化への意識の高まりと相俟って、「文化財」の持つ意味に広がりが求められるようになってきた。これまでの保護の対象という考え方から、保存と継承に加えて、積極的な公開と活用という考え方が文化財行政に取り入れられ、平成8年(1996)10月には文化財登録制度が導入された。
 それは、建設後およそ50年を経過したもので、@人々に広く親しまれている、A意匠が優れていたり、優れた設計者等が関わった、B技術や意匠が卓越していたり珍しいもので他にあまり例がない、といういずれかの基準にあてはまるものを対象としている。50年を経たものの大半は、いずれかの基準を備えているといえそうである。この制度によって、歴史的遺産に対する規制と保護の枠組みが飛躍的に広げられた。また、近代化遺産は単に歴史的遺産としてだけではなく、まちづくりのための社会資産として地域の活性化に結びつけて位置づけるという方向が導かれるようになった。平成13年(2001)1月の時点で、全国の登録有形文化財は2112件を数えている(『登録有形文化財目録』文化庁文化財部建造物課、平成13年1月)。

舞鶴の近代

 京都府北部に位置し、若狭湾特有のリアス式海岸線を有する舞鶴市は、昭和18年(1943)に旧舞鶴市と旧東舞鶴市が合併し、昭和32年(1957)に旧加佐町を加えて現在の市域が形成されている。市域中央に連なる山地によって市街地は大きく東西に分かれ、それぞれ町の生い立ちを異にしたいわゆる複眼都市を構成している。
 西地区(旧舞鶴市)は、天正8年(1580)に細川氏が築いた城下町・田辺として発展してきた。江戸時代には商港としても栄え、いまも高野川沿いに並ぶ土蔵群がその名残を見せている。竹屋町、丹波町、平野屋町などには城下の商人町の面影を伝える町屋が点在し、山沿いに形成された寺町の景観も健在である。
 舞鶴鎮守府庁舎

 一方、東地区(旧東舞鶴市)はかつては漁村であったが、海軍の舞鶴鎮守府開設に伴って様相を一変、急速に発展した近代の町であり、軍港都市として計画的な都市づくりが行われた。江戸時代には百戸足らずであった旧浜村は新市街の中心となり、河川の流路を変え、中央部は格子状に町割りされた。
赤い線が新市街地の計画路線 余部鎮守府附近新市街地平面図から

 明治29年(1896)5月、舞鶴鎮守府建設着工に当たって舞鶴に臨時海軍建築部支部が設置され、土地の造成、諸施設の工事が始められる。明治34年(1901)10月1日にいたり舞鶴海軍鎮守府が開庁、日本で第4番目かつ日本海側における初めての軍港が発足した。初代司令長官は東郷平八郎で、その長官邸も現存する。大正11年(1922)のワシントン軍縮会議による舞鶴鎮守府廃止という危機にも直面したが、以後昭和20年(1945)の敗戦まで「海軍のまち」として特異な発展をみせる。
 このように舞鶴の近代化は旧日本海軍との関係を抜きに語ることはできない。ことに軍港が設置された東地区においては、それまでの漁村景観が一変する。このような意味で、また現存する遺構などが東地区に偏在することから、舞鶴の近代化遺産についてはもっぱら東地区を中心に語られがちである。しかし、軍港設置に連動して西地区にも大きな近代化のうねりが押し寄せた。
 明治30年(1897)の「舞鶴軍港規則」によって、舞鶴湾は全域が軍港第一、第二、第三区に区分される。西地区の港湾はその大部分が第三区に含まれ、商港としての機能を負って修築整備されることになった。第三区は「航路ノ妨トナラサル限リハ艦船自由ニ碇泊スルコトヲ得」と定められたからである。
 このことを受けて、明治末から昭和にかけて海岸沿いの埋立地の造成、岸壁・護岸の整備、航路標識の設置、官設鉄道舞鶴港線の延伸などが行われた。これらの修築整備工事は、第T期が明治41年(1908)から大正2年(1913)にかけて、第U期は昭和3年(1928)に舞鶴港が第二種重要港湾に編入されたことを受けて翌4年から同13年(1938)にかけて、つごう2期にわたって行われた。さらに旧城下の周辺街区が広げられ、旧町人地の町割りを踏襲する形で商港都市としての装いを整えていく。
 また、郡是製糸(現グンゼ)が大正9年(1920)年に、日出紡績(のち大和紡績)が昭和13年に操業を開始(郡是は昭和28年閉鎖)するなど、西地区は産業港湾都市としての地歩を固めていった。 ただし戦前までに実施された港湾修築整備事業を物語る痕跡の大半は、戦後のさらなる整備拡張事業によって姿を消している。
 高野川河口には軍需物資輸送のために架設(昭和10年代)された可動橋があり、城下町以来の土蔵群と一体となって河口の景観を引き締めていた。河川環境の面での問題もあったようだが、登録文化財制度の施行を待たずに解体撤去された。
 『舞鶴市史 通史編(下)』(昭和57年)の巻頭に、昭和2年(1927)9月20日に海舞鶴駅に設置された「貨物積み卸用テルファー(懸垂運搬装置)」の写真が掲載されている。同様の施設として静岡県清水港に保存されているものがあり、舞鶴のこれなども貴重な近代化遺産であったが、いまはない。このような機械、設備類でも土地(地域)に密着した工作物は単体でも登録文化財の対象となるのである。
道芝隧道(北吸側) 
福井勝太郎氏提供
中舞鶴線北吸トンネル附近
昭和46年 福岡芳宏氏撮影
高野川可動橋 昭和46年 小寺康正氏撮影

舞鶴の近代化遺産

 舞鶴の近代化遺産のなによりの特色は、かつて軍港を中核として整備された基盤の大半が、現在の市民生活の中に生きているという点にある。軍港都市でありながら本格的な空襲を受けなかったために、大多数の施設は損傷を受けることがなかった。戦後はいったんアメリカ占領軍に接収されたが、その後は舞鶴市や民間等に払い下げられ、あるいは海上自衛隊に受け継がれて現在にいたっている。
 旧海軍の主要施設の多くが煉瓦造を主体として建設されたため、煉瓦造の近代化遺産が群として現存していることも、本市の特色をさらにきわだたせている。平成8年度に行われた調査では約120件の煉瓦建造物(橋梁、トンネルなどを含む)が確認された(『舞鶴赤煉瓦建造物群調査』財団法人日本ナショナルトラスト、平成9年3月)。東地区の中心部に多数現存する煉瓦建造物は、西地区に見られる近代以前の歴史的景観に対して、海軍を核とする近代的都市づくりの、いまに生きる証である。
 個別の近代化遺産について、あるいは赤煉瓦のことや技術史上特筆される内容などについては別に紹介されるので、ここでは舞鶴の近代化遺産の概要を整理しておくことにする。
・東地区(浜、北吸、余部)に新市街が造成され、海岸線には石垣が築造された。碁盤目状の計画的な街区割りと軍艦名のつけられた道路、石積護岸はいまも健在である。護岸のある箇所は、尺貫法の時代にあって、メートル法によって計画、築造されたという。
・艦艇に大量の水を補給するための軍用水道施設(貯水池、浄水場、配水池など)が建設され、現在もなお清浄でおいしい水を市民に供給し続けている。
・軍需物資を輸送するため鉄道が敷設され、道路が整備された。途中には橋が架けられ、トンネルが掘られた。海軍工廠が設けられた余部への動脈であった旧国鉄中舞鶴線(東舞鶴ー北吸ー中舞鶴)は昭和47年に廃されたが、路盤は自転車道、人道として利用されている。
・軍港施設を守るために設けられた砲台や堡塁等の要塞施設は、戦後その用を失った。それらは湾口の岬や市内への進入路を見下ろす山の頂上に築かれたため、戦後は長い間放置されていたが、農業用貯水施設として利用されたものもあった。
・旧海軍工廠施設(明治36年に造船廠と造兵廠を合併して海軍工廠となる)の一部は昭和20年7月29日から30日にかけて空襲被害を受けたが、戦後は工場や事務所の大半が民間造船所として稼働を続けている。
・魚雷や銃砲などの軍需品等保管庫は、現在も民間や自衛隊の倉庫、物品庫として使われている。うち2棟は「赤れんが博物館」「市政記念館」として、また旧海軍機関学校大講堂は海軍記念館として転活用されて広く公開され、市内外のひとたちに親しまれている。
・煉瓦の大量需要に応ずるために由良川河口に築造された煉瓦焼成窯(ホフマン窯)が現存していることも特筆される。これらの施設は旧海軍建築部の技師たちによって、当時の最先端技術と材料を投入して工事が進められたものである。その際に作成された設計図書、見積書、質疑応答書などが大量に保存されている。近代建築史、技術史に関する質量とも一級の資料と現物を照合、検証することができるという点でも、舞鶴の近代化遺産は貴重な位置を占めている。

おわりに

 これまでに公刊されている各地の調査報告書等をみると、近代化遺産として調査された対象のかなりの部分は共通しているが、それぞれの地域独自のものもみることができる。炭坑を軸にした町、製糸を主要産業とした町、鉄道の要衝として展開した町等々、近代化への歩みは地域ごとに条件や環境を異にするからである。手許にある府県単位の調査報告書、例えば山口県のそれには一次産業として製塩が、秋田県には鉱業油田が取り上げられているが、京都府にはみられない。
 地域の歴史や個性を物語る確かな証人、それが近代化遺産である。近代化遺産が現役として機能していた時代は、まだ十分に手が届く範囲にあり、世代を越えて「歴史」を共有することを可能にする。当初の機能のままいまも現役として稼働中のものもあるし、用途を変更して活用されているものもある。
 近代化遺産を含む歴史的環境は、文化的、社会的活動のもっとも確実な証拠を後世に伝えるものであり、歴史的環境の保全と現代社会への統合は都市計画および国土開発の基本的要素であるとユネスコ(国連教育科学機構)は位置づけている。
 歴史的環境を保存し、あるいは再生するということは、永年にわたり形成されてきた地域環境のもつ秩序を維持し、地域に育まれてきたデザインを尊重しつつ、魅力的で住みやすい環境をつくっていくために不可欠な条件なのである。懐かしい風景やモノを目にしたことがきっかけとなって、蓄積された記憶が再生される。歴史的環境を損なうことは、多くの人たちに共有されている記憶の再生装置を取り外すことにほかならない。合理的、機能的側面のみを強調してきた日本の近代化が行き着いた果てに、どこを切っても同じ顔があらわれる金太郎飴のような町がいたるところにあらわれるに至った。そうではない個性的な顔をと願うところであるが、そのためには不断の努力を要する。手をこまねいていては醜くなる一方である。

舞鶴の近代化遺産INDEX