世界に誇れる旧海軍機関学校の建築群
 舞鶴市は、明治34年に海軍鎮守府が開庁して以来、昭和20年の終戦を迎えるまで、海軍のまちとして発展してきました。この間、国の威信をかけた軍港の建設が進められており、当時の最先端の技術を用いた学術的価値の高い建築や土木構造物等が多数現存しているといわれています。
 平成5年11月に、『翁の憶い出 〜我が生ある限り〜』という本が発行されました。著者の汲川圭司さんは、鉄骨や鋼構造物の設計、製作をされてきた方で、現在の海上自衛隊舞鶴地方総監部(旧海軍機関学校)の主要な建物を設計されています。この本には、旧海軍機関学校建設当時のことも詳しく記されており、世界に誇れる建物であることが明らかになってきました。今回は、この本の記述にふれながら、旧海軍機関学校の建物を紹介いたします。
(斜体が『翁の憶い出 〜我が生ある限り〜』からの抜粋部分)
汲川圭司氏略歴
 明治36年11月 三重県生まれ。名古屋高等工業学校(現名古屋工業大学)卒。昭和2年10月、呉海軍建築部舞鶴出張所(現舞鶴海上自衛隊本部)嘱託を拝命し、海軍機関学校新営工事に従事。これが鉄骨建築の出会いとなる。後、藤永田造船所(現三井造船藤永田造船所)勤務を経て、長谷部・竹腰建築事務所(現日建設計)奉職。奥小路鉄工所に兼務出向などを経て、昭和26年6月、泉工業を設立。翌年、泉工業鰍ノ改組、社長に就任。昭和51年5月、大阪鉄構建設業協同組合理事長、全国鐵構工業連合会副会長に就任。現在、いずれの役職も辞任し、大阪市内にてちゑ夫人らと余生を送っている。
鉄骨との出会い
 ある日突然、緊急の呼び出しを受け罷り出たところ、土屋先生より「海軍建築部在勤中の古い先輩から若手技術者の斡旋依頼が来ている。国家予算の関係から本官になれないかも知れないが、向こう数年間は仕事が継続するようである。」との話であった。
 そこで同年の晩秋、嘱託技術者として奉職することに決意した。それには少し理由がある。 この時分の世相を風刺した奥野多見男氏の小説「学士様なら娘をやろか」の題名に表現される極度の不況による重苦しい社会の環境の中で、職なき者をルンペンなる言葉で連日、新聞その他に報道されつつあった時代であった。確かにその後、数年間は「大学は出たけれど」の風刺小説の題名と同じく不況による極端な就職難時代が続いた思い出が甦る。
 この時の奉職が鉄骨造との出会いとなり、今日回顧すれば終世、鉄との関わりを持つ人生を歩むことになったと思う。(42頁)
 昭和2年(1927)の初冬、京都府舞鶴海軍要港部内呉海軍建築部舞鶴出張所に出頭、所長海軍技師である甚目雅治氏の引見を受け、速刻、仕事内容の説明を受けた。(注、要港部とは、鎮守府の指揮下に入る。舞鶴は日本、イギリス、アメリカ三国間の軍縮会議の決定により鎮守府から要港部に格下げされた)(46頁)

新たな耐震理論により設計
 甚目所長は「海軍機関学校を当舞鶴の旧海兵団跡地に建設することに決定したので、その新営工事の設計関係の技術者として君を嘱託する。設計する建物はほとんどが鉄骨造となる予定であるが、その構造計算は民間における計算方法とは異なり、現海軍省建築局長の眞島健三郎博士の耐震構造論に基づき計算せよ。ここにその論文がある。これを貸与する。よって本日よりこの論文を熟読理解して、眞島理論に基づく実施設計にとりかかるように」と申し渡された。(46頁)
 今日、当時を振り返ってみるに、眞島博士は大正12年(1923年)9月の関東大震災による被害状況を具に視察され、鎌倉における大石塔が台石ぐるみ転倒していたり、当時すでに完成していた東京駅前丸の内側の丸ビル(我が国最初のアメリカ式貸ビル)が前年の大正11年(1922年)4月26日の午前、浦賀水道を震源地とするM6.8の強震によって柱梁接合部等に亀裂を生じたので、当時の貨幣価値(丸ビルの建築費1千万円)による百万円也の巨費をもって頑丈に耐震補強された。そして、翌大正12年(1923年)9月の大地震によって再度亀裂を生じた現場を詳細に視察され「地震の大きなエネルギーに抵抗するような構造物に設計すべきではない。我が国古来より多く現存する社寺建築の塔類のような地震のエネルギーを受け流す如き構造物があり、現に各地の三重、五重の塔の倒壊は一つもない。先人の示してくれたこれこそ耐震構造のあり方」と感得され、自今海軍部内の施設物には耐震構造材として鉄骨をもって躯体とし、強い地震を受けた時は壁材破損の程度にとどめ躯体の安全を図ることこそ肝要、との構想のもとに数字的証明をされたのである。(47頁)
戦艦建造用の鉄骨を使用
 甚目所長より機関学校の諸施設は「軽微なものを除き、全て鉄骨造とする。その引当鋼材は八八艦隊(大正の中期、第一次世界大戦後国防上、戦艦八隻、巡洋戦艦八隻を主軸とする艦隊編成の呼称)建造用引当鋼材が日本、アメリカ、イギリス三国間の軍事協定によって余剰となり目下、呉海軍工廠に保管中である。この鋼材を機関学校建設用として極力活用せよ」と鋼材リストの交付を受け・・・(53頁)
鉄筋煉瓦の採用について
 そこで私の担当にかかわる躯体鉄骨の計画は本省の指示に基づく耐震方針に従い、眞島理論に忠実に施行する方針として地震発生時壁体に亀裂、破損、脱落を生じても躯体鉄骨を温存する方針として鉄筋煉瓦が採用された。
 昭和初期には煉瓦積工法による建造物が沢山あり、また関東大震災時にも被害軽微または無傷の赤煉瓦の事務所建築が、東京丸の内に多く現存していたので、煉瓦壁を鉄筋によって補強すれば、なお一層の有効性ありとしてここに、鉄筋煉瓦の出現をみたと思っている。(58頁、59頁)
昭和8年機関学校卒業アルバム写真
昭和8年機関学校卒業記念アルバムより
動的耐震理論に基づいて実際に設計された世界で最初の建築!
 海軍機関学校は横須賀にありましたが、大正12年(1923)9月に、関東大震災のため海軍機関学校校舎は被災し全焼しています。このため、同月末には海軍兵学校(広島県江田島)内に移転して、臨時に機関学校生徒教育を実施しています。
 しかし、被害が余りにも大きく、復興も容易でなく、当時舞鶴には鎮守府の要港部格下げによって遊休施設や用地があったため、同14年要港部(現つつじヶ丘宿舎)に生徒科が移転し、翌15年には同校本部も舞鶴要港部に設置されました。
 そして、昭和2年6月、海軍機関学校は旧舞鶴海兵団跡の敷地4万5千坪の使用を決定し、3ヵ年継続事業として校舎新築工事を施行することになったものです。
 校舎建設は、昭和3年6月に着工、同5年3月に工事が完成し、翌月竣工及び移転式を挙行。さらに、大講堂は同8年10月に竣工しています。
 汲川氏が設計したのは、「庁舎」、「軍事学、普通学講堂」、「理化学講堂」、「生徒館」の4棟の建物です。
 京都大学の西沢先生によると、「舞鶴機関学校は現在の超高層建築の設計の基礎である動的耐震理論に基づいて実際に設計された世界で最初の建築となっている。それは米国に先駆けること約30年という早い時期に完成したもので、当時の日本帝国海軍の建築技術力は世界の耐震工学の水準を遥かに凌いでいたことを明確に示している。この意味で舞鶴機関学校の建物は構造技術史上、耐震工学史上極めて大きな学術的価値を有している」と報告されています。
 
旧庁舎写真 旧普通学軍事学講堂
旧庁舎 旧普通学軍事学講堂
旧生徒館写真   

旧生徒館    
参考文献
 汲川圭司 『翁の憶い出 我が生ある限り』 轄|構造出版大阪支社 1993.11  
 財団法人日本ナショナルトラスト編 『舞鶴赤煉瓦建造物群調査』 
                  財団法人日本ナショナルトラスト 1997.3
 舞鶴市史編纂委員会編 『舞鶴市史(通史編下)』 舞鶴市 1982.7

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