赤煉瓦倶楽部・舞鶴

水野信太郎の赤煉瓦こばなしVol.17
シリーズ「煉瓦と乗り物」
No.1 南蛮船の渡来と近代的造船技術

 昨年は、日本にもアジアや世界にとって、あまり良い一年ではありませんでした。舞鶴市では、ポーツマス市との間に姉妹都市の提携が結ばれるという悦ばしい事があった一方、台風の当たり年でもありました。台風7号のドシャ降りと10号の風雨の激しさは地元で30年ぶりとか、いや40年来などと耳にしました。私も舞鶴市内の船小屋が、7号ではボートが浮かびあがるほどの浸水を、そして10号では小屋の屋根全体が剥ぎ取られるという被害を受けました。本年こそは景気も底をうって、明るい方向へ回復することを望みます。
 さて、心新たに、新鮮な話題を提供します。今年のテーマは乗り物、そして最初は船です。イギリスのポーツマス市は英国海軍の重要な基地です。この点でも船舶に縁があります。また、私が冒頭で船小屋の話をした理由も実は、ここにあるのです。わが国に煉瓦が初めてもたらされたのは仏教伝来と同時か、ほとんど遅れない6世紀のことです。ですが日本が西洋と出会うのは、およそ100年ほど後の戦国時代・16世紀でした。この時に西洋から直接″れんが が持ち込まれました。それでも名前は東洋式に″せん″だったと思われます。
 南蛮文化の一環として導入された煉瓦ですが、どうやら日本国内で作られたのではないようです。煉瓦を焼いたという記録も、窯跡もないのです。つまり外国製煉瓦が運び込まれました。しかし当時の日本人が、わざわざ煉瓦を輸入するはずありません。わが国に煉瓦が運ばれたのは次のような理由でした。ヨーロッパからの長い航路では、船が空荷だと不安定で危険です。このため船に安定性を与える目的でバラストと呼ばれるものを船底に載せます。バランスを保つための重りです。そのバラストとして運ばれてきた煉瓦は日本の港で降ろされ、それに替わって日本の品々が南蛮船に載せられて西洋に届けられました。南蛮文化の急激な流入は、江戸幕府による鎖国政策でストップされます。煉瓦も消滅し、復活の時代は215年後の開国からでした。わが国の近代化は日本を植民地にしないことを目標にしました。ですから国防は最重要課題、大砲と軍艦の整備です。このため長崎に製鉄所のちの造船所を建てます。起工時の名称が長崎鎔鉄所で、完成したときに製鉄所と改められます。この工場のために国産第一号の赤煉瓦が、工場の敷地内で焼成されたのです。
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