事例報告
「旧鐘紡洲本工場の煉瓦造建築」

司会)
 ありがとうございました。最後に金沢学院大学助教授で、また舞鶴市の赤れんが博物館顧問の水野信太郎氏に、「旧鐘紡洲本工場の煉瓦造建築」と題し発表を行っていただきます。水野氏は、1955年愛知県生まれ。東京大学大学院終了、現在金沢学院大学助教授。かつての産業分野における遺構の調査研究と、それらを生かしたまちづくりにも深く関わってこられました。特に舞鶴市の赤れんがを生かしたまちづくりや赤れんが博物館の開設から今日に至るまで、キーマンとしてご活躍いただいております。それでは先生お願いいたします。

水野信太郎氏)
 はい、皆さん今晩は。水野でございます。私は今日は、淡路島の洲本の煉瓦の建物に関してお話をさせていただきます。最初にですね、その建物の具体的なお話に入る前にですね、煉瓦の見方、調べ方というなんか傾向と対策、受験生の皆さんお早うございます、頭はすっきり目覚めていますか、というこういう感じでなんですね。実はまず、この1枚目はですね、バラバラの煉瓦を見まして、大きさ、色、それから肌合い、その下に印、マークがあるんですね。向かって左側が古いタイプの特徴でございます。で、右側が新しいんですが、大きさからまいりますと、まず煉瓦の大きさを見まして、寸法が大きな煉瓦ほど古いという事がございます。それは西洋人の手の平の大きさに合わせているもんですからね、それを小さな寸法に後ほど淡路島の煉瓦の寸法、このOHPに出てまいりますけれど、21センチ、10センチ、6センチていうのは、実は大正14年に決めましたので、それ以前はみんな大きいんです。その会社ごとによって、建物ごとによって違いますが大きいんですね。これよりこの寸法というのは、大正14年に決めましたので、実は昭和なんですね。そういうような事で、小振りな物ほど新しいというようなことが言えます。一方、色でございますが、色合いはですね、焼きの甘い焼成温度が低い薪で焼いている物ほど古いタイプ、まぁより原始的と言ってもいいと思います。これが紫色ぽい、しっかりとした赤というものは、これはまぁホフマン窯等によるんですけれど石炭を使いまして、西洋式の窯でしっかり焼かれた新しいタイプだということが言えます。古い方は、江戸時代の瓦を焼く窯で焼いた物なんですね。この肌合いを見てみますと、実はですね、手作りの物これは古いもんなんですが、それはつるつるしているんです。新しい機械で作りました物は、表面がざらざらしているんです。台所で使います卵切器の黄身の所を見てみますとざらざらしておりますね。明治時代の人が発明品としてですね、縮緬状、布のですね絹の縮緬のようにざらついている、これは明らかに新しいタイプの機械による大量生産のものだということなんです。一方今度、必ずしも全部にあるんじゃないんですが、煉瓦に印が押されている場合、その会社のマークがトレードマークが押されているのは新しいわけですが、それ以前のですね、特に幕末の物はですね、イロハとかですね、漢数字とかですね、○△□とか、意味不明の物があるんですね。これは実は会社のマークじゃなくて、一つの会社の中のある職人さん例えば加藤さんだとか山田さんとか、その人の暗号なんですね。それはその職人さんが、一日にどれだけ沢山作るかによってその能率給をもらっていたときの名残りというようなことが言えます。はい、今度はですね、積み上げられました建物を見てみます。そうしますとですね、この建物でございますが、イギリス積みなんですね、新しいタイプといってもよろしいかと思うんですけれど、それはですね、幕末期にはですね、フランス積みというこれは明治36年の、舞鶴市の赤れんが博物館あるいは明治36年なんですが実は古いタイプで、積むのにやっかいなんです。時間がかかるんです。これ見ていただきますと、トントントンと小口の段を積んでからですね、その上は長手の段という、簡単なんですけれど、それは明治後半から関東大震災までこの積み方になってまいりました。あとアメリカ積みですとか、ドイツ積みという、国ごとに癖があるんですけれど、これはやっぱり設計者のその国の人達が、日本に来たときから始まります。次にですね、積み上がりました建物を見まして、接着剤を見ますと、白っぽい物、先程立花さんの写真で来年の大会をします富岡の写真が出てましたが、あれは白いんですね。オレンジ色の煉瓦で、白い漆喰といいますか、お城の白壁の材料なんですが、これは古いタイプでございます。接着力は弱いんですけども、灰色になってきますと近代的な丈夫な物に成ってくるというようなことがあります。古いタイプと新しいタイプです。それから鉄が入ってまいります。実は鉄筋煉瓦、そういう言い方はしておりませんが、平たく言いますと鉄筋煉瓦なんです。煉瓦がコンクリートに変われば実は鉄筋コンクリートになってくるんですが、そういう現在の鉄筋コンクリートの、予習ですね、お稽古になったような物がございまして、横浜の新港埠頭倉庫は、妻木頼黄先生の設計ですが、妻木先生がその帯鉄ですとか丸鋼ですね、鋼の棒を鉄筋よりもうんと太い物を、煉瓦の中に埋めるという試みを随分積極的になさってますが、彼などの仕事は新しいタイプという言い方が出来ると思います。
 はい、お待たせしましたが、淡路の話でございます。淡路、実は洲本でございまして、ここの所なんですね。はい、実はこういう飛行機の中で雑誌がもらえるんですが、その中にもう紹介されているんです。ミュージアムパーク、アルファビアとございますが、ここの所なんですね。この建物でございます。実はネットワークの方は、「輪環」に紹介されておりますので、これをご覧になった方がいらっしゃると思います。市内の様子をご覧いただきますと赤い色が飛んじゃっているんですが、この部分なんです。これ洲本港でございます。船でここへ着きますが、これが鐘紡の跡でございます。ここに今、活用されております美術館、レストランがここにあったかと思います。第一工場といいますか、最初は淡路紡績という会社だったんですが、それが随分細工町というお城に近いところだったようですが、それが鐘紡に変わります。そして鐘紡としましてこの土地に最初に作りましたのは、この北側第2工場です。明治42年です。その後大正時代になりまして第三工場、このところに第四工場があったんですけれど壊されまして、この第三工場が壊されるというので、私が今年の1月に呼ばれたわけでございます。これが工事中の明治41年これが第2工場、先程の川の側でございますが、これの本物の写真がお借り出来ましたので、こういう形なんですけども、基礎の状態なんですね。こういう形で独立基礎がございます。大変に広い敷地でございます。お城の上の方から覗いて見ました。この部分なんです。下を見ていただきますと、これが第2工場明治42年で、これがですね、実はここは、こちらが第四工場なんですけれど、鬼頭梓先生という煉瓦を扱わせて僕は日本で一番上手だと思うんですが、図書館の設計の定義がございます。この方はフリーの方で、設計事務所を主宰されておられる方ですが、鬼頭先生の設計でこれを生かしながら、この部分をいかしながら工事をしておりました。完成したんだそうです。先程発表なさいました岡田所長、ご覧になられたそうで、いい物が出来たとおっしゃっておられました。完成してから私見ておりませんが、これが第2工場です。実はこれどういう物かと言いますと、塵突(じんとつ)なんです。煙を抜く物は煙突なんですね、臭いを抜く物は臭突なんです。台所の上に開けておけばいいんですけれど、これは、紡績工場の糸くずをですね、働いている人の胸を痛めてしまいますので、ここの所で引きまして、ここに引っかけながら空気をきれいにしようという塵突、埃ですね。そういうものなんです。これは残った方です。これが壊された方でございますけれど、第三工場がやっぱり大きな物ですね。21センチ、長さ、今のもんなんですけれど、それが長くて、幅が10センチなんですが5ミリ程大きい、やっぱり外人さんの手の平の大きさが、まだ痕跡として残っているいるんです。厚みは6センチの所が5センチ7ミリですから、薄っぺらいわけですね。やっぱり今の物よりは古いタイプの原始的というと言い過ぎですが、そういうタイプの物でございました。これが、問題の第三工場、実はこれは壊されてしまったんですが、見ていただきますと、控え柱が、柱型がございまして、しかも先程の第2工場の方は上から下まで、柱の太さが一緒だったんですが、ゴシックと言うと言い過ぎでしょうか、誉め過ぎでしょうが、そういうもんなんですね。あと、この屋根がついとりまして、空気が温度差によって換気扇を回さなくても引かれて来るんですが、これが鉄筋コンクリートで出来ているという第三工場の塵突でございます。はい、この部分なんですね。で、正面から見ますと、こういう形の物でございます。これを覗いてみます。下から覗いて上を見上げますとこういう形なんです。これ上なんですよ、こちら側が下なんです。ただ煉瓦の壁なんです。ここへ釘をいっぱい打ち付けて置いて、引っかけるという話を聞いたことがあるんですが、ここの場合は何もない、つるつるの状態でした。はい、こういう形ですね。真上を見上げて見ました。で、そこへ登ってみました。塵突、こういう形で上に上がれるようになっている物なんですね。上に上がって中を見ますと、こういうかっこうです。上は屋根があって、木造の屋根がついてるという形です。まわりはこう高いわけです。落ちたらたまらないです。ただのがらんどうです。周りを見ますと鋸屋根が解体されているところなんですね。第三工場の。これは生き残っているレストランです。変電室、電気室ですね。洲本城の麓から見たところの写真で、一番最初に見ていただいた物でございます。周りがこんな形で、再利用されている、これが、鬼頭先生の図書館になるところですね。さきほどの塵突が見えます。ここが美術館になっている棟でございます。すぐ足下を見ますと、鋸屋根、向こうが壊されているしここも壊されていますし、ここはまだ北側採光のガラス窓が残っていると言うことです。塵突を順番に時間の限り、お知らせしたいと思うんですが、これは、豊田佐吉さんが自動車の豊田佐吉さんが操業しました名古屋駅の北側でございますが、豊田紡織の本社工場で、これが塵突なんですね。これが今、豊田グループの産業技術記念館に生まれ変わりました。これが生きております。こういうもんなんですね。ここで私、生まれて初めて塵突という言葉を、こういう字を書きますが、教えられました。誰が教えてくれたかというと、大野大一さんです。あの豊田グループの看板方式を発明したといいますか、考え出した方でございます。他の企業もございます。これは、東洋レイヨンの大垣工場でございます。昭和9年なんですが、こんな形の物でございます。それからこれも同じものでございます。あと、日紡の関ヶ原の工場にこれは事務所棟ですが、これが変電室ですけれども、やはりこれ実は、関東大震災の年に完成しているんですね、最後の煉瓦造といってもいいと思うんですが、大正12年の完成なんですが、鋸屋根でその中身がこういうワンルームなんですけれども、ここに塵突がございます。時間がきました。他にも塵突は全部紹介することが出来ました。
ありがとうございました。

司会)
 ありがとうございました。それでは、時間もございませんので、ここまま休憩をいれずに、パネルディスカッションに移りたいと思います。その前に舞台の模様替えをいたしますので、しばらくお待ち下さい。

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